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ラトビア大学駐在記5(5)

11月11日の土曜日は、日中の最高気温が4度で、冷たい雨が断続的に降る一日でした。宿舎の周囲の各家庭には、雨の中に国旗が立てられていたので、何の祝日なのかを調べてみました。「ラーチュプレーシスの日」とありました。

ラトビアの首都リーガは、1200年代に北方十字軍のドイツ騎士団によって建設されたドイツの植民都市です。以来、ドイツ人はバルト・ドイツ人として第2次世界大戦のドイツ敗退までの700年間住み続けますが、ラトビアの地は、ドイツ、ロシア、ポーランド、スウエーデンなど、異なる侵入民族により、入れ替わり立ち替わり支配されてきました。

ラトビア人が、ラトビアの地で初めての独立を宣言したのは、1918年11月18日でした。当時の支配者は帝政ロシアで、そのロシアで社会主義革命が起こり、ドイツがラトビアに侵攻した第一次世界大戦の最中に、ラトビア臨時政府は独立を宣言します。しかし、その後の1年間は、ラトビアはロシアとドイツとを相手の独立戦争に突入します。

独立を宣言した1年後の1919年11月11日。ラトビア独立軍は、帝政ロシア軍との最後の戦に勝ち、真の独立を勝ち取りました。その勝利は、兵数と軍備で圧倒的に劣るラトビア人の勇気と英雄的精神で勝ち取られたというので、12~13世紀の民族の英雄伝説を叙事詩として歌い上げ、ラトビア人の民族意識を覚醒させた、19世紀の詩人ラーチュプレーシスの名にちなんで命名された祝日だそうです。

リーガ市の西側には、川幅500メートルを超すダウガヴァ川が流れています。川筋に沿って旧市街地側を走る大路が「11月11日通り」で、リーガ城に面しています。11月11日は、毎年リーガ城周辺でローソク集会があるそうです。ラトビアの第1回目の独立は、第二次世界大戦時の1940年に、ドイツとソビエトが交わした秘密議定書の確認事項、ラトビアのソビエト併合、で終わりました。第2回目の独立は、1991年のソビエト崩壊時です。

1919年に、市内に散らばる様々な学校が統合してできたラトビア大学は、ロシア語に代わる、初めてのラトビア語での教育を始めました。今でも大学としてのまとまったキャンパスがなく、各学部の周囲のビルも、中世の雰囲気を保っている、いずれも似たようなビルなので、大学なのか、商業施設か、病院か、はたまた住宅なのか、看板が出ていても、ラトビア語で書かれているので、よく分かりません。日本人から聞いた話だと、少数民族のラトビア人の民族の言葉を守るために、外国語併記が法律で禁じられているそうです。

日本語クラスを開いている経済学部の正面に、広い路面電車の通りを挟んで、4~5階建てのビルが4棟連なっています。各ビルの1階は、右端がコンビニで、その左隣が何だか分からずに、その左隣がホテルで、左端がレストランです。先日、この5年間、何か分からなかった建物の窓のカーテンが開いていて、中が見えました。授業中の小学校の教室のようでした。その認識で何度か見てみると、やはり小学校でした。

ラトビアでは、祝日に各家庭での国旗掲揚を、法律で義務付けています。警察がパトロールして、不掲揚の場合は罰せられてきました。しかし、今年、掲揚の義務は合憲だが、不掲揚を罰するのは、個人の表現の自由を侵す、という裁判所の判決が出たそうです。

(1)11月11日通り。右奥の屋上に旗の翻る白い塔がリーガ城の画像
(1)11月11日通り。右奥の屋上に旗の翻る白い塔がリーガ城

(2)左側のビルが経済学部。右側の右から2番目のビルが小学校の画像
(2)左側のビルが経済学部。右側の右から2番目のビルが小学校