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大崎教授の海外駐在記「ラトビア大学駐在記3(6)」

 10月7日から、大学にも民間アパートにもスチーム暖房が入りました。当日の最低気温は零下5度でした。最近、ラトビア系ラトビア人から、ロシアに関する批判を聞きます。特に、ロシアがウクライナからクリミア半島を奪った件を話題にする人が増えてきました。

 世界文化遺産の首都リガは、約800年前にドイツ人によって作られた街です。ラトビアの支配者は、ドイツ、ポーランド、スウェーデン、帝政ロシアと変遷しましたが、ドイツ人は混血を繰り返しながらもバルト・ドイツ人としてリガの実権を握り続けました。その間、ラトビア人は農奴だったと、ラトビア系の学生が自嘲気味に言います。

 バルト・ドイツ人がリガからいなくなったのは、第二次世界大戦の時で、10万人以上が亡命し、残った人々も、ソ連により処刑され、あるいは国外に追放されたそうです。さらに、ソ連はリガからドイツ風の文物を抹消し、ドイツ語の碑文のある墓地までも破壊したそうです。もっとも、戦争の初期に、リガはナチス・ドイツに占領され、一部のバルト・ドイツ人の協力のもとに、4万4000人のユダヤ系市民が市内の森で処刑されています。

 ソ連は、ラトビア併合を国民投票による国民の請願という形にし、反対する3人の元国家元首や現役の大臣15人を含む3万4250人を処刑しました。金持ちや知識人はシベリアや強制収容所に送られ、戦禍や一連の出来事で、リガの人口は3分の1に減りました。代りに、ロシアを主に60万人をラトビアに移住させ、多くはリガに住み、一時、リガの人口はロシア人の方が多くなったそうです。ラトビア語は排斥され、ロシア語が普及しました。

 1991年に、ラトビアは2度目の独立をし、ロシアに抑留されていたラトビア人は戻ってきました。しかし、移住してきたロシア人の多くはそのまま国内に留まり、人口203万人の27%を占めています。その後、ラトビアはラトビア語の話者をラトビア人と定義しました。その結果、ロシア系の半数の約30万人が無国籍者となりました。現在、リガの住民は70万人で、ラトビア系は46%、ロシア系が41%です。つまり、リガ市民の5分の1以上が無国籍者です。彼等を救済するために、ロシア語公用語化を問う国民投票が3年前にありましたが、圧倒的多数(75%)で否決されています。

 ロシアのウクライナ侵入後に、隣国リトアニアは、5年の暫定で徴兵制を導入しました。ラトビア政府は、徴兵制を否定し、ロシア国境に最新の武器を配備すると、特別声明を出しました。ラトビアは北大西洋条約機構(NATO)にも加入しています。NATO各国は隣国リトアニアの空軍基地に戦闘機を派遣してバルト地域の空の備えを固めています。その代償として、ラトビアは、イラクに133人、アフガニスタンに190人を派兵し、各3人の犠牲者を出しました。一方、ウクライナはNATOに加入していませんでした。

 日本語クラスのラトビア系学生は、ロシア系の前ではロシアの批判をしません。しかし、私に対しては、ロシアに対する胸中の思いを隠しません。先日宿舎に遊びに来たラトビア系の女性は、「ロシア語の公用語化は絶対に反対だ。」「ボーイフレンドは、徴兵があるなら喜んで応ずると言っている。」と話していました。一方、「自分は学内で白眼視されているようだ。」と漏らすロシア系の女子学生がいました。

大学本館の裏手に隣接するVermanes公園。5ヘクタールあります。の画像
大学本館の裏手に隣接するVermanes公園。5ヘクタールあります。

宿舎の周囲に広範に落ちている、栃の実。の画像
宿舎の周囲に広範に落ちている、栃の実。