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学長特別対談『半世紀の振り返りから見る 地方国立大学これからの在り方』

物理との出会いから研究者になるまで

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有馬朗人(ありまあきと)

学校法人根津育英会 武蔵学園 学園長

1930年大阪府生まれ。東京大学卒業。75年東京大学理学部教授。89年東京大学総長、93年理化学研究所理事長、98年参議院議員となり、文部大臣、科学技術庁長官を務めた。95年から98年まで中央教育審議会会長。2006年より現職。10年からは公立大学法人静岡文化芸術大学理事長も務める。俳人としても有名。
08年4月から本学の経営協議会学外委員を務める。元気の秘訣は、1日一万歩のウォーキング。休日は俳句と散歩、読書にふける。

小山 本日はお忙しい中、山形へお越しいただきありがとうございます。
有馬先生は、もともと物理の研究者でいらして、東京大学の総長、理化学研究所の理事長など経営者としてのご経験、それから文部大臣という政治家としてのご活躍、俳句もお詠みになってと、非常に多様な経歴をお持ちです。今日は、大学についてお話を伺います。そこで、有馬先生が大学に入られたきかっけを教えていただけませんか?

有馬 ご招待いただきありがとうございます。
子どもの頃から物理が好きだったことがきっかけと言えるでしょうか。小学生の頃、両親に買ってもらった本の一冊に『世界のなぞ』という科学読み物がありまして、これを愛読していました。当時最新の技術だったX線など様々な話題が載っている中、特に物理の分野に興味を持ちまして、小学4年生になる頃にはブリキ板を工作してモーターを自作するほどでした。それでこのモーターを学校に持っていったら校長先生から大変に褒められまして、すごく嬉しかったんですね。それをきっかけに、ラジオを自分で作ったり、特に実験が大好きで、夢中になっていましたね。だけど、戦後父親が亡くなってからは、自分で道具を買ってきて実験をやるのが経済的に難しくなりました。そんなときに、アインシュタインとインフェルトが書いた『物理学はいかに創られたか』という本に出会ったんです。そこから理論物理学へ転向したところ、1949年に湯川秀樹先生が日本人初のノーベル物理学賞を受賞されて。「これからは理論物理だ」ということでその道を進み始めました。

小山 本で興味を持ち、実験を通して、また理論へ戻られた、というわけですね。

有馬 はい。ですから今でも、ものづくりが好きなんです。10年くらい前までは自分でトンカチやっていましたよ。
大学時代は「就職に有利だぞ」と実験物理を勧められたのですが、実験をするとなると放課後から夜までかかってしまってアルバイトの時間がとれません。私は生活のために高校時代から家庭教師などのアルバイトを掛け持ちしていましたから、実験費用のかからない理論物理はうってつけでしたね。それで、大学院3年のときに東京大学に原子核研究所ができましたので、そこに助手として採用されたんです。

小山 それから研究者としての道を歩まれたのですね。

有馬 24歳の時に、ビスマスという金属の原子核の磁気の力がなぜ理論値と実験値で異なるのかを、先輩である堀江久さんと突き止めたのですが、それが海外で評価されましてね。1959年にアメリカのアルゴンヌ国立研究所へ行くことになりました。実は当時、湯川先生に推薦状を書いていただいて、デンマークとアメリカのどちらかを選ぶことができたんです。デンマークは他に希望者がいたことと、単純に給料が良いから、とアメリカを選びましたが、今になって考えると世界の研究者たちと対等な関係で共同研究を行なえる環境であったというのが良かったと思います。日本と違ったのは、毎日2回のコーヒーブレイク。研究のことはもちろん、時事やサイエンスのことなど様々なことを同僚と語り合える時間を持てたことは非常に有意義でした。

アメリカで知った教育への責任

小山 その後は東京大学の講師になられてからも、何度かアメリカに長期滞在で研究活動をされました。
当時、先生から見て、大学はどんな風に映っていましたか?

有馬 あまり日本の教育はいいとか悪いとか思っていなかったけれど、1971年にニューヨーク州立大のストーニーブルック校で採用されて、大学院の担当として赴任したはずなのに、学部の1・2年生の講義を担当することになりました。日本の高校生がやるような易しい内容から教えるんですが、徹底的に教育するんです。日本との違いに驚きました。大学生なのに宿題をたくさん出すし、学生に本を読ませて、発表させたりなんかしてね。教育の体制がしっかりしている。
特に印象的だったのは着任直後、パリの国際会議に招待されて基調講演を求められたとき。とても名誉なことですから、当然大学も許可すると思ったのですが、一言のもとに「ノー」。教育するために大学に雇われたのだから、講義をしっかりやりなさいと。結局、補講を約束して基調講演には行けましたが、厳しいですよね。また学期末には学生が教員を評価するアンケートも実施されて、その結果は食堂に貼り出される。教育に責任を持つ、という点に徹底しています。それからでした、日本の教育に対しても関心を持つようになったのは。研究費も少なく、設備も整っていない状況。大学側も1・2年生に徹底的な教育をしていない。研究者という意識が強く、教育に対して積極的でない教員たち。その教員たちを評価する制度もない。これでは日本の高等教育はだめだと、日本に帰ったわけです。

小山 今おっしゃったことが、それから40年かかってようやく実現されてきました。

有馬 進学率の高まりから、必要に迫られたわけですね。1970年代は高等学校への進学率が60~70%程度で、そのうち40%ほどが職業高校。大学への進学率が20%台で、しかも国立大学に進学する学生といえばかなり高いレベルの学力があった。1980年代からその傾向が崩れ始めて、1985年くらいからアメリカ流の教育をしなければならなくなったということでしょうね。

これからの大学のミッション

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小山清人(こやまきよひと)

山形大学長

1949年和歌山県生まれ。山形大学大学院理工学研究科修士課程修了後、山形大学工学部助手、助教授、教授を経て2004年から山形大学工学部長・ 理工学研究科長、07年から山形大学理事・副学長。1995年ベンチャー・ビジネス・ラボラトリーを設立し、地元産業との共同研究を推進、2001年には大学教授として民間企業の取締役にも就任した。14年4月より現職。工学博士。専門は高分子レジオロジー工学、超音波工学。学生時代から山形大学ひとすじの「山形大学48年生」。宿舎での野菜作りが最近の趣味。

小山 これから10年、20年先の大学はどんな姿になるとお考えですか?

有馬 平成元年の頃は200万人だった18歳人口が、今や119万人になろうとしています。4人に1人だった進学率も、2人に1人くらいになっている。18歳人口は減っているのに、逆に私立・公立ともに大学数が増え、各大学の定員数も増えています。「分数ができない大学生」というのが話題になって、初等中等教育が悪いという風潮がありましたけど、初中教育の学力は下がっていない。大学への進学率が増したことが学力低下の原因です。こういった状況で大切になるのが、1・2年次でしっかり教養的な教育を施すことです。これは山形大学では基盤教育ということでしっかりやっておられますね。教育の質を向上させなければ学生の質が低下してしまうのは当然の状況ですから、教育の質の徹底的な向上が求められます。ですから必要なのは、一つは国の予算で高等教育費を増やすこと。もう一つが教員を充実させること。そして学生が負担する学費を減らすこと。入学金にしても授業料にしても、日本ほどお金のかかる国は他にありません。アメリカ流でいくなら奨学金を増やす、ヨーロッパ流でいくなら授業料を減らす、などしなければいけない。少子化は現実のこととして進行していますから、少なくなった学生を徹底的に磨き上げることが大学のミッションだと思います。

小山 なるほど。人が減った分、質でカバーするということですね。
ところで、先生が海外で活躍されていた時代と比べると、今の日本の若者のほうが海外へ留学したり、海外で職を得たりすることは少なくなったように思います。

有馬 そうですね。それは、今の大学が充実したということでもあると思います。設備が十分でなかった昔に比べたら、日本で十分教育や研究ができるようになった。喜ぶべき面もある。ただし、海外での経験は人を育てますから、4年間のうち3か月から半年は海外で学ぶプログラムを高等教育費で援助できるといいですね。繰り返しますが、そのためには高等教育費を増やすことが必須です。

小山 1995年に科学技術基本法ができ、5か年計画のもとで研究費は増えてきました。しかし教育振興基本計画は数値目標が入っていないせいで、教育費は追いついていません。

有馬 高等教育基本法をつくって、数値目標を立てなければいけませんね。運営交付金が毎年1%ずつ削減されていますが、これは全くナンセンスです。時代に逆行していますよ。
国立大学協会を中心にこれまでも国に働きかける運動をやってきましたが、最近は私学も助成が減っているので、国立も私立も一緒になって高等教育費を上げる運動をやっていただければと思います。

小山 最後に、大学の教員・スタッフへメッセージをお願いします。

有馬 国立大学の使命という意味では、全国区であると同時に、山形の地域の知的水準を上げ、産業力を上げるということがあります。工学部の有機エレクトロニクス、人文学部のナスカ研究、理学部の総合スピン研究、医学部の重粒子がん治療研究と世界に誇る研究もあり、農学部は企業と連携して、地域教育文化学部は地域と連携して様々な開発を行っている。これは素晴らしいことですから、是非これからも積極的に伸ばしていただきたい部分です。
ベンチャーの中心になったり、高齢化社会をどうするか、初等中等教育をどうするか、といったときに、中心的な役割を果たせるのが大学です。地域をつくっていくリーダー、地域の知的センターの役割を担っていただきたいと思っています。

小山 何よりも励みになるお言葉です。本日はありがとうございました。

有馬 こちらこそ、ありがとうございました。