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折に触れて

(12:2022年7月20日)

山形女子師範学校時代の加藤セチは?

 山形新聞の日曜版には、「やまがた 再発見」として特集記事が掲載される。この欄に、5月22日、29日、6月5日の3週にわたり、「加藤セチ」が取り上げられた。執筆者は、山形県産業科学館の館長、宮野悦夫さんである。

 記事を読むまで、私は加藤セチさんのことはまったく知らなかった。この記事を読んで興味を持ち、その後いろいろと調べてみたところ、とても素晴らしい生き方をされた方だと思うようになった。彼女の人生はまさに波乱万丈であり、数多くの‘人生の岐路’を持っていたことに驚いた。一言で言えば、「NHK朝の連続テレビ小説」に出てくる主人公のような生き方なのである(見ていないのにこう断言するのもいかがと思うのだが)。

 まずは、上記の記事や文末に示した参考文献を基に、加藤セチさんの生涯を‘超’駆け足で追ってみよう。以下、単にセチと記載する。

 セチは1893(明治26)年10月2日、加藤家の三女として、現在の三川町に生まれる。加藤家は、酒田本間家と並ぶ裕福な豪農で、熊本の加藤清正公の血筋を引くという(正確には2代目藩主忠弘公)。

 セチが1歳となった1894年10月22日、庄内地方を大地震が襲う。加藤家の家屋は倒壊し、火災が発生。母、兄、姉が亡くなり、父ともう一人の姉、そしてセチの3人が取り残される。その後、父は酒田水野家のキンと再婚する。1908(明治41)年8月、セチ14歳の時、開墾・酪農事業に失敗した父は、失意のうちに亡くなる。

 セチは、父が亡くなる前の3月、鶴岡高等女学校(現山形県立鶴岡北高等学校)を3年で退学していた。そして、1年後の1909(明治42)年4月、山形女子師範学校(現本学地域教育文化学部)に入学する。4年後の1913(大正2)年3月、首席で卒業し、4月からは狩川尋常高等小学校に教師として勤める。

 1年後の1914(大正3)年4月、継母キンの強い勧めにより、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)理科・物理化学選修に入学する。4年後の1918(大正7)年3月、数学・物理など6種類の中等教員免許状を取り、優秀な成績で卒業する。就職先は北海道札幌市の私立北星高等女学校(現北星学園女子中学高等学校)であった。

 就職した年の夏、母校の東京女高師の生徒が札幌を訪問し、セチとともに東北帝国大学から分離したばかりの北海道帝国大学を見学する。初代総長佐藤昌介は、彼女らに対し、北大は女性にも門戸を開いていると述べる。

 この佐藤の言葉に希望を抱いたセチは、入学の許可を求め、総長室の前に何日も座り込む。結果として、正規生ではなく‘選科生’(現在の科目履修生に相当)として入学する。北大初めての女子学生であった。女学校の教師を続けながらも1921(大正10)年3月、セチは3年間で25科目を履修し、農学部農学科を修了する。同時に3年間の教職義務を終えた北星高等女学校を退職し、北大農学部の副手となる。

 その後開所4年目であった東京駒込の理化学研究所(以後、理研)が研究員を集めているとの情報を得て、東京へ移り、翌1922(大正11)年9月に理研に入所する。理研初の女性研究者であった。セチ、28歳の時である。なお、セチは入所から20日後に、長男仁一を出産した。

 この間セチは、同郷の佐藤得三郎と結婚していた(注:狩川小の教師時代に結婚したとの文献もある)。セチは得三郎に加藤家を継いでほしいと懇願し、加藤家の養子として迎えたのだった。その時、得三郎は京都帝国大学工学部で建築学を学び、同大学の助手となっていた。セチが理研に入所した翌年、1923(大正12)年9月1日、関東大震災が起こる。得三郎は京大を辞め、東京で復興局の技師となり、復興に尽力する。

 1924(大正13)年1月には長女コウが生まれ、加藤家はセチ、夫得三郎、長男仁一、そして継母キンの5人家族となる。この時期の家事は、継母キンがその大半を引き受けていたという。

 理研でのセチは、分光学を学び、連続スペクトル(連続したエネルギー分布)を持つ光を物質に当てると、物質が特定の波長のエネルギーを吸収すること(吸収スペクトルとなること)を利用した化合物の分析手法の開発に没頭する。1933(昭和8年)年6月、その成果をまとめた学位論文を京都帝国大学に提出し、理学博士の学位を取得する。保井コノ、黒田チカにつぐ、日本で3人目の理学博士であるが、家庭を持つ女性としては最初の理学博士であった。

 1942(昭和17)年、セチは理研の「研究員」に昇任する。この時、理研の研究者は約900名、主任研究員は33名、研究員は61名であったという。それから11年後の1953(昭和28)年4月、セチは理研で初の女性「主任研究員」となる。理研でセチが主宰した「加藤研」は、女性研究者を積極的に採用し、博士の学位を取得させたという。

 1954(昭和29)年、セチは60歳となり、公式には理研を退職したが、特別研究室嘱託として残り、以後5年間務めることになる。その後、ボランティアで中・高校の理科の教員を対象とした「理科ゼミ」を主宰し、最新の科学を学ぶ機会を作る。このゼミはセチが81歳になるまでの15年間続いたという。

 1968(昭和43)年6月、セチは故郷の三川町から、初となる名誉町民の称号を与えられる。セチ、74歳の時であった。1989(平成元)年3月、東京の自宅の書斎で脳梗塞のために倒れ、入院治療するも回復せず、3月29日に永眠する。享年95歳。

 以上が‘超’駆け足でたどったセチの生涯である。なお、文献によって出来事の生起年等が数年違う事例が少なからずあった。本稿ではできるだけ正確さを求めて記載したつもりであるが、まだ誤りがあるかもしれない。

 さて、本学地域教育文化学部の母体となった学校の一つである山形女子師範学校時代の加藤セチについての記述は、あまり多くないようである。そのような中で、加藤家と縁戚筋にあたる加藤祐輔氏(現国立研究開発法人 農業・食品産業技術総合研究機構 生物機能利用研究部門 新産業開拓研究領域 生体物質機能利用技術開発ユニット ユニット長)が、加藤家の縁戚の方々への取材と文献調査を基に、「加藤セチものがたり(一)」を執筆し、同氏のウェブサイトに掲載している(末尾にURLを記載)。

 「ものがたり(一)」の「第十九話 珍学生(一)」「第二十話 珍学生(二)」は、山形女子師範学校時代のセチの話である。珍学生とは、もちろんセチのことである。その中では、セチ本来の腕白ぶりが発揮されていたこと、苦手な絵を努力により克服したことなどが紹介されている。

 また、理研は「女性科学者のパイオニアたち 4 吸収スペクトルで物質を探る 加藤セチ」と題する長さ14分余りの動画作成している(末尾にURLを記載)。この中に、山形女子師範学校卒業時に撮影したと思われる集団写真が使われている。

 また、ここには記載しなかったが、セチは自分の歩んできた道を振り返りつつ、後進へ、とりわけ女性研究者へのメッセージ(エッセイ)を残している。努力家であるが故に含蓄のある言葉であり、多くの人の心を打つものである。

 「女性研究者の先駆け」や「女性科学者のパイオニア」などと称される、このような素晴らしい生き方をした方を、本学の母体となった組織ではあるが、同窓生に持つことをとても誇らしく思う。

 加藤セチさんの山形女子師範学校時代は、どのようなものであったのか、もっともっと知りたくなった。もし、資料や情報を持っている方がおられれば、提供していただけないだろうか。また、加藤セチさんを本学の学生も含めて、多くの人に知ってほしいと思うようになったのだが、何か良い方法はないだろうか。

【参考文献:入手できた主なもののみ】
前田侯子、2004:加藤セチ博士の研究と生涯-スペクトルの物理化学的解明と目指して-。ジェンダー研究、7、87-110。
宮野悦夫、2022:611 加藤セチ ㊤ ・ 612 加藤セチ ㊥ ・613 加藤セチ ㊦。山形新聞「やまがた 再発見」、2022年5月22日・29日・6月5日。
山本美穂子、2011:北海道帝国大学へ進学した東京女子師範学校卒業生たち。北海道大学大学文書館年報、6、53‐70。
山本美穂子、2017:[紹介]「科学は女性にとって何物にも優る美服である」:女性科学者の先駆者加藤セチの歩み。北海道大学大学文書館年報、12、53‐67。
(加藤セチ自身のエッセイなどは未入手なので、ここには記載しなかった。)

【参考となるURL】
加藤祐輔氏のURL:
 「美人すぎて科学者にむかない 加藤セチものがたり(一)『坐り込みの君』」
 https://dal11232022.wixsite.com/my-site
 本文中にも書いたように、加藤氏は加藤セチの縁戚筋に当たる。多くの資料を基に、「物語り」として加藤セチの生涯を振り返った。現在は「ものがたり(一)」であるが、「ものがたり(二)」を準備中と記されている。この「ものがたり」には、注釈もつけられている。また、多くの資料がまとめられている。
理化学研究所作成の動画のURL:
 「女性科学者のパイオニアたち 4 吸収スペクトルで物質を探る 加藤セチ」
 https://www.youtube.com/watch?v=2aFxZdaY1Oo