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折に触れて

(15:2022年10月20日)

 折に触れて(2022年10月)

1.嶋基選手の現役引退

  プロ野球界ではシーズンの終盤になると、今季限りで現役を引退する選手のニュースが流れ出す。先月(2022年9月)29日(木)の朝刊で知ったのは、ヤクルトスワローズの嶋基選手の現役引退である。

  嶋選手は1984年、岐阜県の生まれで、中京大学附属中京高校から國學院大學を経て、2007年にドラフト3位で仙台を本拠地とする楽天ゴールデンイーグルスに入団した。以後2019年までの13年間、イーグルスで活躍し、2020年から今年までの3年間はヤクルトスワローズで過ごした。

  この間嶋選手は、入団から6年目の2012年12月から2017年12月までの5年間、プロ野球選手会の第8代会長を務めた。また、2015年から2018年のシーズンまでの4年間、イーグルスのキャプテンも務めた。多くの先輩選手がいる中、選手会の会長やキャプテンを若くして務めるとは、これも嶋選手の統率力と、何よりも人柄が買われてのことだったのだろう。

  嶋選手は、28日に行われた引退記者会見で指導者の道を歩むことを宣言した。彼は、13年間のイーグルス時代、6人の監督の下でプレーしたが、中でも入団時の監督、野村克也さん(1935‐2020:イーグルスの監督は2006‐2009)と、東日本大震災が発生した2011年から4年間指揮をとり、2013年には日本一に輝いた星野仙一さん(1947‐2018:2011‐2014)に大きな影響を受けたという。そして、これからの目標は、野村監督のような名将(名監督)になることだと述べたという。

  さて、多くの人に嶋選手を印象付けたのは、震災時の彼のスピーチではなかろうか。2011年3月11日(金)の午後2時46分に発生したマグニチュード9.0の超巨大地震とその後の巨大津波により、東北地方の太平洋沿岸では人的にも物的にも甚大な被害が出た。この東日本大震災に打ちのめされた被災地の人たちは、4月に行われた嶋選手の2回のスピーチに大きな感動を覚え、元気と勇気を得た。もちろん、私もその一人であった。

  最初のスピーチは、4月2日に札幌ドームでの震災復興チャリティ試合の開始前のセレモニーで行われた。2回目のスピーチは、4月29日にKスタ宮城で行われた公式戦ホーム初試合後に行われたセレモニーで行われた。

  プロ野球の震災復興チャリティ試合は、4月2日と3日、全国6か所で行われた。予め日本野球機構から、試合前にこのようなことを述べてほしいと挨拶の原稿が各球団に届いていたのだそうだ。しかし、嶋選手は「上から目線」のこの原稿に違和感を持ち、球団職員の方と一緒に、スピーチの原稿を考えたのだという。

  私はテレビのニュースや新聞などでこのスピーチを知ったのだが、マイクの前に直立不動で淡々と話す嶋選手の姿が今でも目に浮かぶ。後にこのスピーチの全文を調べてみた。「底力」という言葉がとても印象的であった。そのスピーチ全文を末尾に示す。

  イーグルスが本拠地仙台に戻って初めての試合は、4月29日に行われた。イーグルスの本拠地である仙台は、被災地のど真ん中で、電気、水道、ガスなどライフラインの復旧もままならなかった。実際、仙台市の中央部(青葉区立町)に位置した私のマンションのガスが復旧したのは、4月の中旬16日のことで、イーグルスの試合が仙台で実現したのは、4月も終わりごろになってのことであった。

  仙台市民はイーグルスが戻ったことに歓喜し、2万人を超える多くの市民が球場へと足を運んだ。相手チームはオリックスバッファローズで、田中将大投手の好投によりイーグルスが3対1で勝利した。嶋選手の2回目のスピーチは、この試合の後のセレモニーで行われた。

  そのスピーチ全文も以下に示す。「誰かのために闘う人間は強い」というフレーズには感動する。2011年、イーグルスは被災地のために懸命に戦うも、シーズンは5位に終わる。イーグルスが日本一になったのは、それから2年後の2013年のことであった。

  嶋選手にはこれから指導者として頑張ってほしい。そして、ゆくゆくはイーグルスの監督に就任し、2回目の日本一になってほしい。イーグルスの一ファンの願いである。 

<2011年4月2日札幌ドームチャリティ試合前のスピーチ>
あの大災害、本当にあった事なのか・・・、今でも信じられません。
僕たちの本拠地であり、住んでいる仙台、東北が今回の地震、津波によって大きな被害を受けました・・・。
地震が起きた時、僕らは兵庫県で試合をしていました・・・。
家がある仙台にはもう1ヶ月も帰れず、横浜、名古屋、神戸、博多、そしてこの札幌など全国各地を転々としています。
先日、私達が神戸で募金活動をした時に、「前は私たちが助けられたから、今度は私たちが助ける」と声をかけてくださった方がいました。
今、日本中が東北をはじめとして、震災に遭われた方を応援し、みんなで支え合おうとしています。
地震が起きてから、眠れない夜を過ごしましたが、選手みんなで「自分達に何ができるか?」「自分達は何をすべきか?」を議論し、考え抜きました。
今、スポーツの域を超えた「野球の真価」が問われています。
見せましょう、野球の底力を。
見せましょう、野球選手の底力を。
見せましょう、野球ファンの底力を。
共にがんばろう東北!
支え合おうニッポン!
僕たちも野球の底力を信じて、精一杯プレーします。
被災地のために、ご協力をお願いいたします。

<2011年4月29日Kスタ宮城公式戦初試合後のスピーチ>
本日は、このような状況の中、Kスタ宮城に足を運んでいただき、またテレビ、ラジオを通じてご覧頂き、誠にありがとうございます。この球場に来る事が簡単ではなかった方、ここに来たくても来られなかった方も大勢いらっしゃったかと思います・・・。
地震が起った時、僕たちは兵庫県にいました。遠方の地から家族ともなかなか連絡が取れず、不安な気持ちを抱きながら全国各地を転戦していました。報道を通じて被害状況が明らかになっていくにつれて、僕たちもどんどん暗くなっていきました。
その時の事を考えると、今日、ここKスタ宮城で試合を開催できた事が信じられません・・・。
震災後、選手みんなで「自分達に何が出来るか?」「自分達は何をすべきか?」を議論して、考えぬき、東北の地に戻れる日を待ち続けました。
そして開幕5日前、選手みんなで初めて仙台に戻ってきました。変わり果てたこの東北の地を「目」と「心」にしっかりと刻み、「遅れて申し訳ない」と言う気持ちで避難所を訪問したところ、皆さんから「おかえりなさい」「私たちも負けないから頑張ってね」と声をかけて頂き、涙を流しました。
その時に何のために僕たちは闘うのか、ハッキリしました。
この1ヶ月半で分かった事があります。
それは、「誰かのために闘う人間は強い」と言う事です。
東北の皆さん、絶対に乗り越えましょう。今、この時を。
絶対に勝ち抜きましょう、この時を。
今、この時を乗り越えた向こう側には強くなった自分と明るい未来が待っているはずです。
絶対に見せましょう、東北の底力を!
本日はありがとうございました。

【嶋選手のスピーチの全文が掲載されているイーグルスのURL】

1.2011年4月2日札幌ドームでのチャリティ試合前での嶋選手のスピーチ 
  https://www.rakuteneagles.jp/news/detail/1189.html

2.2011年4月29日本拠地Kスタ宮城での公式戦ホーム初試合後の嶋選手のスピーチ 
  https://www.rakuteneagles.jp/news/detail/1253.html

 

2.有馬敲さんの詩「会議」

  詩人有馬敲(ありまたかし)さん、本名西田綽宏(にしだのぶひろ)さんが亡くなられたことを、10月5日(水)の朝日新聞の記事で知った。9月24日に脳出血で亡くなられたらしい。有馬さんは1931年、京都府の生まれで、享年90歳であった。

  死亡告知記事の後半には、関西詩人協会の代表や、日本モンゴル交流協会の会長を務められたことが述べられていた。そして、この記事は次の文章で締めくくられていた。「値上げをめぐる発言の変遷をやゆした詩『変化』が、フォークシンガーの故高田渡の作曲で『値上げ』という歌になったことで知られる。」

  私は今年(2022年)2月のこの‘折に触れて’の欄で、高田さんの「値上げ」という歌は、高田さんの作詞・作曲と思っていたが違っており、有馬敲さんの詩であった、との話を書いた。その時有馬さんはご存命であったので、有馬さんの名前の後ろに括弧書きで生年のみ入れていたのだが、こんなに早く(1931-2022)と書くことになろうとは。とても残念なことである。

  さて、そのエッセイの最後に、「会議」という詩も傑作ですよと記した。今回はそのさわりを紹介したい。1連3行からなる、全6連の短い詩である。以下、最初の2連と最後の2連を記す。その間の2連は、皆さんのご想像にお任せします。

*****
会議

本会議のために
運営委員会をひらき
遅刻する

運営委員会のために
特別委員会をひらき
居眠りする

第3連 略

第4連 略

小委員会のために
準備会をひらき
欠席する 

準備会のために
宴会をひらき
張り切る

*****

 第6連目に、ちゃんと‘落ち’(!?)も用意された詩になっている。皆さん、思い当たること、ありませんか?

 【参考文献】
有馬敲、2016:『有馬敲詩集』、現代詩文庫225、思潮社、258ページ。