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折に触れて

(18:2023年1月20日)

               

                山形大学の大学祭 -3 五十年誌から(1)-

 本学の大学祭について、『山形大学五十年誌』(以下、50年誌と記載)から得た情報を、数回にわたり紹介する。50年誌は、「山形大学創立五十周年記念誌発行実施委員会」が編んだもので、開学50周年となる1999(平成11)年10月15日の開学記念日に刊行された。

 なお、このような記念誌の発行は時間がかかるもので、出版は1999年であるが、原稿が執筆されたのは1998年ではなかろうか。実際「あとがき」には、「12月末までに各編の原稿はほぼ出揃い、平成11(1999)年1月に原稿整理を経たのちに印刷発注の運びになった」とある(823ページ)。そこで、50年史の原稿は1998年に執筆されたものとして扱う。

1.「総説編 第1章 山形大学の50年」に記載された大学祭

 「総説編 第1章 山形大学の50年、第5節 大学改革の嵐、2.その他の変革、(6)学生の活動」(116~118ページ)の中に、「大学祭」の項目がある。少し長いのだが、該当箇所を全文引用する。この第5節の執筆者は、当時人文学部に所属していた芦立一郎教授(現本学名誉教授)である。まず、小白川地区の大学祭について。

 「大学祭は、小白川、米沢、鶴岡の各地区でそれぞれ学生が実行委員会を組織して実行している。小白川地区では、例年、秋文化の日の前後に『八峰祭』の名称を冠しておこなわれている(1983年度よりこの名称、ここ数年1996年以降は『八峰祭』の名称は用いていない)。設定された共通テーマのもとに実行委員会の全学企画、学生有志の一般企画が展示される。近年の企画をしめす。

 1990(平成2)年度『イチョウ並木の真ん中で・・・・・・山大POWER全開!』、1991(平成3)年度『君は自己を表現できる』、1993(平成5)年度『つどえば充実』、1994(平成6)年度『WANT LOVE』、これ以降は明確な主題を設定することはなくなった。時宜をえたテーマ・企画も相当数見受けられるが、一般企画の多くは飲食にかかわる模擬店であり、日頃行われているサークル活動の成果を発表する企画はあまりない。小白川以外の地区の企画にくらべて、地域の興味を引く内容は少ない。」

 芦立先生の八峰祭に対する評価は手厳しい。それはさておき、八峰祭という名称は1983年度より使用したこと、1996年以降数年、この文章が書かれた1999年ごろまで、八峰祭の名称は使われていないと明言している。前々回のこの欄で、2022年度八峰祭は第56回であることを根拠に、第1回八峰祭は1967年に開催されたと私は推測したのだが、芦立先生の記述とは大きな齟齬がある。今後事情を調べるべき大きな課題である。

 また、1996年度以降数年間は八峰祭の名称を用いていないとしている。もちろん、あり得ないことではないが、そうならばなぜその名称を使わなかったのか、その後どのようにして名称が復活したのか、などの疑問が湧いてくる。ここも今後調べたいと思っている。

 芦立先生は、先の文章に続け、小白川地区以外の地区の大学祭に言及する。

 「米沢では、毎年10月、『工学部祭』として実施されている。重要文化財の『旧米沢工業高等学校本館』の一般公開および研究室の公開が主な企画であるが、いずれも多数の市民が参観する。医学部では3年に一度『医学部祭』がひらかれる。鶴岡の農学部では『11月祭』収穫を祝う行事として実施され、農作物の即売などの企画は地域住民に勧化されている。」

 米沢地区の大学祭が「吾妻祭」として米沢女子短期大学と合同で行われるようになったのは、1995年度からのことである。1998年の執筆当時、既に吾妻祭に名称が変更になっていたはずであるが、この文章には反映されていない。

 医学部では「医学部祭」が「3年に一度」開催されているとある。私にとっては新しい情報である。前回のこの欄で述べたように、医学部の大学祭は「希華祭(きっかさい)」と呼ばれていた。

 鶴岡地区の農学部の記載はこれまでの情報と整合的である。前回この欄で記したように、「11月祭」が「鶴寿祭」に名称が変更されるのは、2011年のことである。

2.「学部・部史編 第2章 文理学部史」に記載された大学祭

 50年誌には総説編第1章山形大学の50年のあとは、学部・部史編があり、第2章文理学部史から、第9章医学部まで、各学部の歴史や現状などが記載されている。それらの中には大学祭に関連する記述も見受けられる。以下、それらを紹介する。はじめに「第2章 文理学部史」から取り上げる。

 文理学部は、1949年5月31日の開学と同時に旧制山形高等学校を母体として設置された。そして、1967年6月1日に、人文学部、理学部、教養部の3学部に分離改組された。なお、実際に組織がなくなるのは、在学全員が修了するまで待つので、1970年3月の文理学部第18回卒業証書授与式を経ての事である。

 はじめに、「文理学部略年表」(159~164ページ)から、大学祭関連の事項を取り出そう。この年表は昭和年で示されている。

 

昭和年 月 日

事項内容

26 10 14・16

開学記念第一回大学祭、文理学部十月祭開催

34 11 15

開学10周年記念大学祭

36 11 14~18

大学祭

43 11 1~7

大学祭(大学祭予算要求と大学予算公開要求)

 
 6ページにわたる略年表であるが、大学祭関係はこの表のように4つの項目のみの記載であった。

 まず、項目1にあるように、山形大学の第1回大学祭は、開学から2年後1951(S 26)年に開催されたことが分かる。同時に「文理学部十月祭」も(別建てで?)開催したようだ。ところで、旧制山形高等学校時代に「学校祭」なるものは存在したのであろうか。項目2からは、1959(S34)年、開学10周年の大学祭が開催されたことが分かる。ただし、この間、大学祭が開催されていなかったのかどうかは不明である。

 項目3にまた大学祭の記載があるが、期日が11月14~18日と、5日間となっている。どのような催しが行われていたのだろう。そして、項目4の記載であるが、括弧書きとして「大学祭予算の要求と大学予算公開要求」とある。紛争の火種となったのであろう(後述)。

 次に、本文の中から大学祭の記載を見ていくが、「第2章 第5節 学生の動向」(146~164ページ)の中の記載は、以下のように2つの項目である。なお、この第5節の記載も第1章と同様、芦立先生が担当されている。

 「学友会」(147~148ページ)の項目の中に、1950年5月文理学部学友会が発足したことを述べ、「翌1951(昭和26)年、山形大学学友会連合会として発会しその発会式を挙行した」とある。そして、「文理学部学友会には文化部・体育部合計34団体が属し、体育競技大会・演劇・雑誌・大学祭等、その活動は年を逐って盛んになっていった」とある。当初の大学祭は、学友会連合会が主催して全学の大学祭を開いたのであろう。

 大学祭に関する次の記載は「紛争の時代」(152~158ページ)にある。1967(昭和42)年、1968(昭和43)年と次第に大学紛争が学内にも及んできたことが述べられ、「山形大学がいわゆる紛争状態に突入したのは、(昭和)43年10月からであった」とし、以下のように述べる。

 「発端は大学祭予算問題で、学生部が大学祭実行委員会の予算要求に応じないと、大学予算の公開要求を持ち出し問題を拡大していった。大学祭は11月1により7日まで開催されたが、教養部学生主体の喫茶店などが多く質的低下が目立っていた」と記す。

 以下、大学紛争に記載が移り、結局大学祭問題がどう決着がつけられたのかの記載はない。おそらく、もっと重要な問題に焦点が移り、大学祭問題はうやむやになったのであろう。この問題、学生側が、紛争の拡大を企てて、多くの学生が絡む大学祭を取り上げ、大学側の理不尽な対応に抗議の声を上げた、というのが本当のところではなかったのか。推測である。

 3.おわりに

 本学の大学祭のルーツや歴史などを探っているが、今回は50年誌に記載された大学祭について紹介した。色々と新しい情報が得られたが、「小白川地区の大学祭は、1983年度より八峰祭という名称を冠して行われている」とする芦立先生の記載に驚いた。本文に記載したように、今後この真偽を調べてみたい。

 なお、本学OB・OGの方の中には、本学の大学祭に関して詳しい情報をお持ちの方もたくさんおられるのではなかろうか。どんなことでもいいので、自分の時の大学祭はこうであったなどと、教えてくださると幸いである。