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折に触れて

(19:2023年2月20日)

               

                山形大学の大学祭 -4 五十年誌から(2)-

 前回に続き『山形大学五十年誌』に記載された大学祭の内容について紹介する。なお、部局・部史編の「第4章 人文学部」「第5章 理学部」「第9章 医学部」には大学祭についての記載はなかった。

1.「第3章 教養部史」に記載された大学祭

 開学時に旧制山形高等学校を母体に発足した文理学部は、1967(昭和42)年6月、人文学部、理学部、教養部の3部局に分かれた。この中の教養部は、20年間存続し、1996(平成8)年3月にその歴史を閉じた。この章は、編集後記によれば1995(平成7)年3月に出版された『教養部の教育と研究 山形大学教養部の歩み』を再編集したものと記されている(221ページ)。

 本章での大学祭の記載は1か所である。「第1節 教養教育の変遷 6.その他の教育」の1項目として「課外活動」が取り上げられている。その最後の節が大学祭に関する記述であった。以下、その節を引用する。

 「大学祭(八峰祭)は実行委員会形式で行われるが、実質は教養部学生が中心となって行われてきた。昭和50(1975)年は2月、翌年は1月に行われ、昭和52(1977)年以降は11月に行われるようになった。」

 1975~1977年の大学祭で少なくとも2年間は、1月や2月に行われている。雪の多い季節に大学祭が行われたのはどういう判断だったのだろう、などと疑問、否、興味が湧く。

2.「第6章 教育学部」に記載された大学祭

 「第3節 学部体制の確立から充実発展へ」の中に、「3.学生の動向と変化の兆し」の項目があり、その最初の「(1)学友会の結成とその後の推移」の中に、大学祭の記述がある。

 本学では、まず1950(昭和25)年10月に理学部に学友会が結成された後、他学部にも結成の働きかけがあり、翌1951(昭和26)年2月、学友会連合会が結成されたという。教育学部の学友会の結成はその年の10月であった。これに続いて、次のような記述がある。

 「さて、学友会連合会の結成は大学全体の各種の課外活動との実施を可能にした。学部対抗競技大会、東北地区大学体育大会、美術展、音楽会、演劇コンクール開催、テント村、スキームらの開設、学術研究発表会の開催と論文集の発行、大学祭の開催など多彩な行事が企画された。」(410ページ)

 開学間もなく、学友会連合会の設立が大きな契機となり、大学祭も含めた多彩な活動が盛んになったようだ。

 次に大学祭の記載があるのは、「第4節 学部機構の刷新と施設の拡充」の「6.学生の動向」の中である。その中の「(3)学友会」の項目の一つに、大学祭に関する次のような記載がある。

 「学友会の活動の中に、全学大学祭参加、全学マラソン大会などもある。大学祭の時期や期間もはじめは一定しなかったが、70年代後半になると秋季にほぼ定着した。1977年は11月16日から4日間、教育学部学友会の参加テーマは、『学費値上げと中教審』、『教員採用試験の実態』、『女教師の生き方』などであった(『教育学部だより』第2号)」。

3.「第7章 工学部」に記載された大学祭

 工学部は旧制米沢高等工業学校を母体とする部局である。本章の第11節は「学生関係」であり、この節の中の一項目が「5.大学祭」である。この項目の全文を以下に引用する。

 「大学に昇格した翌年の1950(昭和25)年11月には早速文化祭が行われ、その後各科対抗球技大会や学部対抗球技大会で置き換えられた時期があったり、あるいは都合により行われなかった年もあったが、大学祭や工学部祭などの名前で形、趣向を変えながら続けられてきている。また学内公開も1952(昭和27)年5月に初めて行われたが、その後も学内公開単独で、また、大学祭に含まれる形で時々行われてきた。1995(平成7)年10月にはこれまで工学部単独で開催されていた大学祭が米沢女子短期大学と合同で吾妻祭として開催された。『地域に根づく開かれた学園祭に』というこの新しい企画は目論見通りの盛り上がりを見せ、以後吾妻祭は毎年行われ、今年(注:1998年)も第4回吾妻祭の準備が着々と進められている。」

 工学部の大学祭は、開学翌年には「文化祭」として開催され、以後、行われなかった年もあったようだが、大学祭や工学部祭との名称で行われてきたようである。また、市民に対する学内公開も、当初は別企画であったが、大学祭と同時に行った年もあったという。吾妻祭となってからは、その「地域に根づく開かれた学園祭に」というコンセプトから大学公開も含めて大学祭を行うことになったようである。

 なお、米沢女子短期大学は2014(平成26)年に改組され、4年制大学の米沢栄養大学が独立した。このため、同年より、吾妻祭は、3大学の合同大学祭と位置付けられている。昨年(2022年)の吾妻祭は第28回としているが、(当然であるが)上記50年誌の記載と整合的である。

4.「第8章 農学部」に記載された大学祭

 農学部は、1947(昭和22)年1月に文部省から認可され、同年4月に入学生を迎えた山形県立農林専門学校を母体とする部局である。

 大学祭に関する記載はほとんどなく、「第4節 学生の移りかわり」の「3.課外活動」の中にほんの少し触れられている程度である。

 農林専門学校時代には校友会があり、農学部になり学友会になったことが述べられた後、次のような記載がある。

 「1960(昭和35)年迄は、年によって多少異なるものの、学部祭行事のなかで講演会、生物研究発表会、収穫祭、弁論大会、ダンスパーティー、農産物品評会、演劇発表会、音楽鑑賞会、学内球技大会等が開催されていた」(680ページ)。文章中では大学祭ではなく「学部祭」と表現されているが、かなり多彩な催しを行っていたようである。

 以下、農学部のサークル活動の紹介が続く。最後の節で学友会活動が低下していることに言及される。そしてその最後に、大学祭のことが触れられる。以下、引用する。

 「(略)また学友会主催のスポーツ大会は毎年前期の6・7月に行われていたが、これも1986(昭和61)年を最後に行われておらず、現在会の主催する行事としては11月祭があるのみである」(682ページ)。

 学友会が最後まで行っていた行事が11月祭であったようだ。なお、既に前々回報告しているように、2011年から「11月祭」は「鶴寿祭」と名称が変更され、学友会ではなく、実行委員会を結成して運営を行っている。

5.おわりに

 前回と今回、本学50年誌に記載された大学祭の内容を紹介した。まったく新しい情報やこれまで得ている情報と整合的なものもあれば、そうでないものもあった。そうでないものの一つが、1983年度から八峰祭の名称が使われたとする記載である。このあたりの事情を今後確かめたいと思っている。

 前回も最後に記したのだが、再度お願いしたい。本学OB・OGの方の中には、本学の大学祭に関して詳しい情報をお持ちの方もたくさんおられるのではなかろうか。どんなことでもいいので、自分の時の大学祭はこうであったなどと、教えてくださると幸いである。