ホーム > 大学紹介 > がっさん通信 > 折に触れて_32

折に触れて

(32:2024年3月29日)

                               

八峰祭について

 小白川キャンパスの大学祭である八峰祭の名称の由来と、いつからそのような名前で呼ばれたのかに興味を持ち、この間調べてきているのだが、なかなか真実(大げさであるが!)に近づけていない。それが、先の「キャンパスから」の欄で紹介した「1日山形大学 in 仙台」(2023年11月26日開催)の際にお話しすることが出来た理学部第1期生(1967(昭和42)年入学)の升澤福夫さんからの情報が発端で、小白川キャンパスの大学祭の開催状況について大きな手掛かりが得られた。今回はその調べた結果を報告する。

1.升澤福夫さんからの情報
 升澤さんは、同期で平清水の清明寮の寮長であった黒田多聞さんとともに、‘記憶の掘り起こし’(調査1)とふすま同窓会記念誌に対する調査(調査2)を行ってくださった。その成果として、次のような情報をお寄せ下さった。

<調査1>
お二人の記憶は一致しており、以下のようにまとめられる。
①   1年生の時に大学祭が開催されたが、「八峰祭」とは呼んでいなかった。
②   大学祭の内容は模擬店ばかりで、学術性に欠け、大学も校舎の使用を許可しなかった。
③   2年生以降は大学紛争の影響で開催されなかったのではないか?
(もしかすると2年生の時は開催されたかもしれないが、遠く平清水に移転した「新学寮」生は参加していない可能性が大きい。)

<調査2>
 ふすま同窓会の記念誌への調査からは次のことが分かった。
① 「母校回帰」1970.10.4 山形高等学校50年、山形文理学部20年記念会・発行
   寮を中心とした写真集で大学祭の情報は無し。
② 「ひかり北地に」2000.10.15 ふすま同窓会八十記念祭実行委員会・発行
   P28、P29に大学祭・八峰祭のスナップ写真などあり(コピー同封)
   P138からの年表の中のP155に以下の記載あり(コピー同封)
    1976(昭和51)年11月3日
      〇山形大学祭第1回八峰祭開く(6日まで)(学生主体の大学祭)大学祭としては通算17回目

 ふすま同窓会記念誌の上記②の年表の「第1回八峰祭開く」という記載はそのものずばりであり、これで決着がついたと思ったのであるが、後述するように、この記載は誤りであると考えざるをえない。理由は後述する。

 いずれにしても、升澤さんの情報からふすま同窓会が発行した記念誌等を調べることの重要性を認識した。実際、次の節に述べるように、調べてみたら多くの情報を得ることができた。

2.ふすま同窓会記念誌の情報
 本学図書館には、文末に記載した3冊のふすま同窓会記念誌が収納されている(参考文献1~3)。それらから多くの情報が得ることが出来たのだが、以下に記すように資料間にだいぶ齟齬があることも分かった。

 ふすま同窓会本部六十年祭実行委員会が編集し、1980(昭和55)年に出版された「われらここに聚ふ(山形高等学校六十年/山形大学理学部三十年/山形大学人文・理学部十年記念誌の中の「山形大学人文学部/理学部史」)」の略年表(485~489ページ)の記載を取り上げる。また、本文にも大学祭に関する詳しい記載があった。人文学部の項目は、山内励さん(人文学部史学科第四回卒業生)が執筆した。

 以下、略年表から大学祭に関する記載を拾うが、和暦・漢数字で書かれていても本稿では西暦・算用数字で記す。なお、冒頭に付した(1-01)などの表現は、参考文献1の大学祭に関する1番目の記載という意味である。

(1-01)1970.12.3~7 大学祭(第6回)
(1-02)1972.1.28~31 大学祭(第7回)・・・注:1971年度大学祭
(1-03)1973.1.16~19 大学祭(第8回)・・・注:1972年度大学祭
(1-04)1975.1.31~2.3 大学祭・・・注:1974年度大学祭。通算回数の記載なし。
(1-05)1976.2.2~5 大学祭・・・注:1975年度大学祭。通算回数の記載なし。
(1-06)1977.11.10~13 大学祭(第12回)
(1-07)1978.11.1~5 大学祭(第13回)
(1-08)1979.12.7~9 大学祭(第14回)

 以上1970年代は大学祭が8回開催された。このうち前半の大学祭は1月から2月にかけて行われていたこと、1973年度と1976年度の2回は大学祭が開催されなかったことが分かる。

 一方で、1977・78・79年度に開催された大学祭が、それぞれ通算第12・13・14回とされているが、1974年度大学祭を第9回、1975年大学祭を第10回とすれば、それらは、それぞれ第11・12・13回と考えざるを得ない。実際、別の資料と照らし合わせると、このように修正するとつじつまが合ってくる。この点については後述する。

 この件について、著者の山内さんと電話で直接お話する機会を得た。山内さんは当時の資料(大学祭パンフレット)を基に書いているので、実行委員会がそのように認識していたのではなかったのか、とのことであった。残念ながらこれらの資料は既に処分したとのことである。また、当時学生たちは大学当局とは距離を保って大学祭を行っていたので、大学全体の行事と位置付けられているわけでなく、回数の認識も統一されたものではなかったのではとのご意見であった。

 次に、2000年に発行されたふすま同窓会八十年記念祭実行委員会出版部編集による「ひかり北地に ふすま同窓会八十年記念写真誌」(162ページ)の年表(138~162ページ)からの記載である。升澤さんからの情報の元となった文献である。年表の冒頭に、この年表は出版部において編集したとあり、前書きの末尾には、「編集責任:田宮良一」と記されている。

(2-01)1951.10.14~16 開学記念第1回大学祭、文理学部10月祭
(2-02)1957.10.31 大学祭
(2-03)1959.10.15 開学10周年大学祭開催
(2-04)1961.11.14~18 大学祭
(2-05)1968.11.1~7 大学祭(7日まで、大学祭予算要求と大学予算の公開を要求)
(2-06)1976.11.3~6 山形大学祭第1回八峰祭開く(6日まで)(学生主体の大学祭)大学祭としては通算17回目
 <この間、大学祭の記載なし>
(2-07)2000.10.28~29 第17回八峰祭(山大祭通算34回)

 上記のうち(2-06)が、升澤さんが提供して下さった情報である。しかしながら、1976年度は大学祭が開催されなかったという1の文献の記載と矛盾すること、(2-07)の記載と整合性が取れないことから、誤った記載であると私は判断する。

 最後に、ふすま同窓会百年誌編集部が編集し、2021(令和3)年に出版された「ふすま同窓会百年誌-伝統を紡ぎ未来に続く-」の記載を取り上げる。この記念誌には二つの年表が掲載されている。一つは、「第三部 山形大学 第一章 文理学部」の年表(170~173ページ)である。もう一つは、巻末に付けられた「百年の歩み」である。以下、この二つの年表に記載された大学祭の情報を記す。

「山形大学文理学部 略年表」からの情報。
(3-01)1951.10.14~16 開学記念第1回大学祭、文理学部十月祭を開催
(3-02)1959.11.15 開学10周年記念大学祭
(3-03)1961.11.14~18 大学祭
(3-04)1968.11.1~7 大学祭(大学祭予算要求と大学予算公開請求)

 次に「百年の歩み」からの情報。
(3-05)1951.10.14~16 開学記念第1回大学祭、文理学部十月祭を開催
(3-06)1957.10.31 大学祭
(3-07)1959.11.15 開学10周年記念大学祭
 <この間、記載なし>
(3-08)2020.10.24 「八峰祭」中止。

 ここで(3-01)と(3-05)、(3-02)と(3-07)は同一の大学祭に関する記載であるので、まとめると少なくとも1951・57・59・61・68年度に計5回の大学祭が行われていたことが分かる。また、これらは(2-01)~(2-05)の記載と一致する。

 ところで、上記山形大学文理学部略年表(2-04)の1968年の大学祭の記載のカッコ書きについては、「第一章 文理学部 第六節 紛争の時代 一.大学予算公開要求と大学会館解放闘争」に記載があった。当時、山形大学でも学生運動が盛んになり、1968年開催の大学祭も、学生側と大学側とのもめごとの火種になったようである。

3.八峰祭はいつ始まったのか

 今年度(2023年度)開催された八峰祭は、第57回である。では、第1回はいつ開催されたのであろうか。当初、私自身は単純にそのまま年をさかのぼると1967年が第1回となるので、1967年の大学祭が第1回と考えた(折に触れて、No.26、2022年11月20日)。1967年は文理学部が人文学部と理学部に分離した年でもある。それを記念に大学祭を八峰祭と名乗ったのだろうと単純に考えたのであった。

 しかしこれは、升澤さんの記憶にもあるように、当時、八峰祭とは名乗っていないので後に付けられたことになる。これについては(2-06)にそのものずばりの記載があるのだが、既に述べたようにこれは誤記である。

 いろいろと可能性を探ると、(2-07)の記載がキイのようである。2023年度が57回であるので、さかのぼると2000年度が第34回となる。すなわち、八峰祭と名乗ってから17回目であるが、通算34回目の大学祭との回数と一致するのである。

 従って、2000年度以降、通算の‘大学祭’の回数を‘八峰祭’の回数として数え直したと考えるのが自然であろう。

 ここで、広島大学自由研究サークル「なんでも総合研究所」がまとめた「全国大学祭歴代テーマ」が参考となる(末尾にURLを記す)。山形大学では、八峰祭と吾妻祭が取り上げられており、八峰祭に関しては以下のような記載であった。

【八峰祭】
 西暦           和暦     回数     テーマ
 2003          H15      37        響喜嵐舞
 2004          H16      38        (不明)
 2005          H17      39        Harmony~地域と大学の調和~
 2006          H18      40        愛
 2007          H19      41        挑戦
 2008          H20      42        (不明)
 2009          H21      43        染~SEN~
 2010          H22      44        (不明)
 2011          H23      45        『発信』One Step for Smile

 すなわち、この資料から、2003年度には八峰祭の回数を大学祭の通算回数で表現していることが分かる。

 さて、今度は(2-07)を起点に、過去にさかのぼるとどうなのだろう。すると、八峰祭の第1回は1984年度に開催されたことになる。これは山形大学50年誌に芦立一郎先生が記した1983年度とは1年違いである。どちらが正しいのかであるが、ここで記したように、1984年度の方が他の資料と整合性が取れていると判断される。いずれにせよ、八峰祭の名称が使用されたのは1980年代前半であろう。

 次に大学祭の名称でさかのぼると、1979年度大学祭が第13回となり、既述のように、(1‐06)~(1‐08)の通算回数を1回ずらしたものと整合性が取れる。

 また、(1‐01)で記載した1970年度が第6回とすると、前述のように1968年度まで5回の大学祭が開催されているので、これも整合することになる。

4.結論とさらなる疑問
小白川キャンパスの八峰祭について、次の様にまとめることができる。
〇八峰祭の名称は、1984年度の通算17回目の大学祭から用いられた。
〇その後、いつしか(2000年ごろか)大学祭の通算回数で八峰祭も数えるようになった。
 したがって、2023年度は通算57回目の八峰祭となる。
〇1977年度の第11回大学祭以降は、毎年度開催されている。
〇1977年度より前の、1回から10回までの大学祭の開催は次のとおりである。年度(回数)で記す。
 1951(1)、1957(2)、1959(3)、1961(4)、1968(5)、1970(6)、1971 (7)、
 1972(8)、1974(9)、1975(10)。

 以上が今回の調査のまとめなのだが、1984年度の大学祭の時、どうして「八峰祭」という名称にしたのかについては今回の調査では全く不明である。また、升澤さんたちは入学した1967年度に大学祭を行ったと記憶されているが、年表には一切現れていない。この理由はなんだろうか。まだまだ、疑問が残る。

 本稿を記すにあたり、今回の調査で大変お世話になった升澤福夫さんと山内励さんに感謝の意を表する。

【参考文献】
1.ふすま同窓会本部六十年祭実行委員会(編集)、1980:われらここに聚ふ
     (山形高等学校六十年/山形大学理学部三十年/山形大学人文・理学部十年記念誌の中の
       「山形大学人文学部/理学部史」)。昭和55年10月5日、439ページ~489ページ。

2.ふすま同窓会八十年記念祭実行委員会出版部(編集)、2000:ひかり北地に
     (ふすま同窓会八十年記念写真誌)。
      平成12年10月15日、164ページ。

3.ふすま同窓会百年誌編集部(編集)、2021:ふすま同窓会百年誌-伝統を紡ぎ未来に続く-。
  令和3年10年30日、333ページ。

【大学祭のテーマについてのURL】
広島大学自由研究サークル「なんでも総合研究所」による「全国大学祭歴代テーマ」
http://hunir.html.xdomain.jp/contents/bneta/gftheme.html